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近代における|日上山藩士金子消邦像形成に関する-考察

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まず、本稿で取り扱う金子について、その経歴を紹介しておきたい。 金子は、’八二一一一(文政六)年、譜代大名藤井松平家(上山藩主)の家臣金子仁兵衛の子として上山に生まれ る。一七歳で藩校句読師に任命され、以降、仙台の大槻平泉塾・江戸の昌平饗で学問を修める。一八五四(安政 元)年の家督相続後、一八五七(同四)年に次期藩主松平信庸の傅役(教育係)、一八六○(万延元)年に側用人、 一八六六(慶応二)年に中老と藩政の中枢に関わる立場へ昇進し、財政・軍事・教育・飢鐘対策など諸分野で藩政 改革を主導し成功へと導く。さらに、公武合体による尊王・擬夷の実践を目指し、擬夷策を水戸藩の徳川斉昭に建

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本稿は、近代の、山形県南村山郡上山町(旧上山藩領・現在の山形県上山市の一部)における、旧上山藩士金子清 邦(通称、与三郎・’八二三~一八六七)の人物像に対する認識の変遷について明らかにすることを目的とする。 そのうえで、当時、国家が提示した天皇を中心とする歴史観のなか、地域が如何に郷土の歴史を評価していったの か、その一端を示していきたい。 近代における旧上山藩士金子清邦像形成に関する一考察 はじめに

長南伸治

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(2)

さて、金子の死後、その事績が上山町で語られ始めるのは、管見の限り、同人を顕彰する銅碑が建設された 一八九七(明治三○)年以降となる。この銅碑建設以降、同地では幕末維新期を回顧する動きがある毎に、金子の

(3)

事績が想起され語られていく。つまり、金子の事績は、近代の上山町における幕末維新期に対する歴史認識を形成

した重要な一要素であったといえるのである。 近年、国家が示す歴史観との距離を考慮しつつ、近代の地域はどのように郷土の歴史を評価し位置づけていった

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のか、その実態が徐々に明らかにされてきた。詳しくは後述するが、上山町における金子の人物像も、国家の示す 歴史観の影響を受けつつ形成されていったものといえる。そういった点から、本稿の試みは、それら諸研究に対し

新たな事例を付与するものといえるだろう。 また細かな点ではあるが、本稿は、上山町における金子の人物像の形成について、先行研究で論じられた見解の 修正を図る目的も有する。一八六三(文久三)年四月、出羽庄内藩郷士清河八郎が幕府の刺客により江戸にて暗殺 された事件について、その事件は幕府と金子が結託して引き起こされたとの疑惑が生じている。この疑惑は 一九○八(明治四一)年の清河への贈位決定と相俟って、一八九七(同三○)年の銅碑建設の際に提示された金子 の人物像に対し大きな影響を与えていく。この疑惑について蔦谷榮三氏は、一九○四(同三七)年に、旧上山藩士

(5)

増戸武平が史談会で金子の暗殺加担を語ったことを契機に生じたものとしている。さらに、そのように増戸が語っ た意図は、金子が仕える譜代大名藤井松平家(上山藩主)の名誉を守るためだったとしている。つまり、幕府に反 一八六七(同三)年一一一口

(2)

傷を負い、翌日死亡する。 言し、また、頼三樹三郎をはじめとする著名な尊撰論者と交流するなど、積極的に活動を展開している。しかし、 一八六七(同三)年一一一月、幕府から江戸薩摩藩邸浪士捕縛の命を受け、庄内・鯖江など諸藩共に出動した際に重

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近代における|日上山藩士金子消邦像形成に関する-考察

抗的な行動をとった清河と金子が親密な関係であったと認めることは、徳川家に恩義ある譜代大名藤井松平家の名

誉を艇めることに繋がると考えたゆえに、金子・清河の関係性を否定すべく、金子の暗殺関与を灰めかしたとして

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いる。これら蔦谷氏の見解に対し筆者は異なる見解を持っている。その点は本論にて詳述したい。

最後に、本稿の分析方法について提示しておきたい。本稿では、①一八九七(明治三○)年の上山町における銅 碑建設。②明治三○年後半の史談会における金子に関する談話.③一九○八(同四一)年の清河への贈位決定。④

一九二六(大正一五)年の上山町教育会による「幕末之名士金子与三郎」刊行、これら四つの局面における金子 の事績の語られ方について分析を加えていく。なお、④を分析項目の最後に据えたのは、管見の限り、同書が提示

した金子の人物像を覆す史料は、それ以降、近代を通じて確認できないことから、同書は、近代の上山町において

提示された金子の人物像の決定版ともいうべき性格を有していたと考えるためである。

一八九七(明治三○)年七月、金子清邦の事績を刻んだ銅碑「得庭金子先生碑」が、上山町月岡神社境内に建設

される。この銅碑建設は、金子の死後、その人物像が初めて世に提示された出来事となる。

(今J) 正確な時期は不明だが、同年の数年前から銅碑建設に向けた動きは開始されていたらしく、同年一月に「計画協

議相整」ったことを期し、建設に賛同する「発起人」七○名の連名で建設資金獲得に向けた寄附金募集が周囲に呼

(8)

びかけられている。この「発起人」には、上山町内外に居住する旧藩士とその子孫、および、明治期に区長や県〈玄

(9)

議員を務めた同町の有力者が多数名を連ね、また、そこには名が記されていないものの、後に一元成する銅碑の「豪 「得虚金子先生碑」の建設

147

(4)

(Ⅲ)

額」は旧上山藩主松平信庸が請け負っている。これら関係者の素性を一瞥すると、銅碑により示された金子の人物

像は、建設地の上山町において一定の影響力を持つものだったといえるだろう。 さて、寄附金募集の際作成・配布された印刷物「故金子清邦先生建碑費予算」(以下「予算」)によると、募集金 額は総額千二百円、募集期間は同年八月までとされ、銅碑建設の他に、金子の「遺稿」を収めた書籍編纂も計画さ

(皿)

れている。士《た、この「予算」の他、「発起人」らは「故金子清邦先生銅表建設主意書」(以下「主意書」)と題す

る印刷物も配布している。その中には、銅碑建設を企画した経緯の他に、金子の人物像についても記されている。

後出「得虚金子先生碑」文面と内容的に重複する部分も多いが、重要な史料であるため提示しておきたい。

故金子清邦先生銅表建設主意書

故金子清邦先生ハ(中略)①初我藩財政ノ困難ナルハ世人モ評スル所ナリシカ、先生蚤二之ヲ憂上屡藩政改革

ヲ建議セシニ、当路者中反対ノ人アリテ、拒テ之ヲ容レサル而已ナラス(中略)家門ヲ鎖サルルノ惨待ヲ被

り、慢々トシテ歳月ヲ送ルモ其志操屈セス、後チ潮ク時ヲ得テ、世子ノ少傅トナリショリ、爾来其言う処藩主

二採用セラレ、次テ藩政二参與シ、改政ノ宿志ヲ達シ、文武ヲ盛ニシテ士気ヲ振興シ、教導局ヲ設ケテ民政ヲ 改新シ、鰈寡孤独ヲⅢミ、不幸ニシテ田ヲ売ルノ貧民ハ、貸資シテ之ヲ購上復セシメ、溝汕ニカヲ用ヒテ水利

ヲ得セシメ、荒蕪ヲ開墾シ、教導吏ヲツテ各村ヲ巡回セシメ、耕桑ヲ勧誘シ冠婚喪祭ノ制度ヲ立テ、民ノ冗費

ヲ省キ、徒刑ヲ設ケテ悪ヲ懲シ、社倉義倉ノ方法ヲ設ケテ凶荒二備上シメ、会計ノ任二適スル士二専任シテ、

入ルヲ計り、出ツルヲ制シ、藩債ヲ償却シテ終二余財ヲ生セシメ、羽越両国中二於ケル管内ノ農工商二賦スル

モノ、自ラ簿キー至り、謂ハュル富国強兵ノ目途殆ト達スルニ至しり、②当時尊王擬夷討幕ノ論士勃興シ、

ママ 佐幕開港ノ議者之二抗シテ天下鴛然タルノ秋二方リ、先生幕府親藩ノ世臣タルヲ以テ憂慮措ク能ハス、幕府ヲ

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近代における旧上山藩士金子清邦像形成に関する-考察

シテ朝廷ノ命二遵奉セシメ、侮リヲ海外二受ケサランコトヲ勉メ、水戸前中納言景山公二海防策ヲ建言シ、

ママ 頼三樹三郎ノ如キ動王ノ士ト交リ時事ヲ議論シ、又清川八郎ノ如キハ先生一一兄事セリ、一方ニハ幕府ノ閣老

二謁シテ幕議ノ非点ヲ痛論シ、京都守護職二謁シテハ其所見ヲ陳述シ、尊王佐幕両党ノ間二昼夜奔走シ、焦 身苦慮一身ヲ忘レテ国家ノ為メニ全ヲ求メシニ、慶応三丁卯歳十一一月、不幸ニシテ弾丸ノ下二鼈レタリ、③次

テ王政維新二際シ、東北ノ諸藩多クハ方向ヲ誤ルノ結果ヲ来セショリ、先生ノ素志ヲ識ラサル者ヲシテ、単

純ナル佐幕党ト誤認セシメタリ、故二先生生前ノ知己天下二多キー拘ハラス、明治初年ノ交二於テハ、先生ノ

功徳ヲ金石二鍋メ、不朽二伝ヘント欲スルノ計画跨跨セシ所以ナリ、今ヤ三十年ノ星霜ヲ経テ、先生ノ知己ナ

ル者ハ、古稀以上ノ老人ニシテ且シ存スル者甚ダ少ナシ、今日之ヲ称揚スルノ拳ナクンハ、先生ノ徳沢空ク浪

滅二帰シテ、終二之ヲ知ルモノナキニ至ラン、是し我躍等ノ慨歎二堪ヘス、銅表建設ヲ天下ノ志士一一訴フル処

増戸武平吉江磨瑳記成瀬勝明小池勉堂吉田立卓高橋幸橘相馬亀太郎鈴木庄蔵高橋政次郎後

藤余所吉石井伊惣治石井忠肋高橋金六中村代助相原茂肋松本大蔵松本長兵衛松本是助相原

清助高村圭助齊藤芳助清野久作高橋友次郎遠藤久治原田周蔵島津為吉高橋秀精梅津清中

高村光蔵楳津直次郎原田源助会田太吉五十嵐平次郎齊藤長七中村周助遠藤金之助湯原政共

小池侶之進井上巳之助中村文左衛門菅沼徳助高橋市太郎武田喜代治羽島栄蔵高橋善助楳津松

太郎宇留野藤吉河合害兵衛須藤宮次郎高橋吉次吉田栄七大木高博佐藤吉五郎山口吉五郎杢 発起人 ナリ(中略)

明治三十年一月

141

(6)

前者について(①以下の部分)、金子は藩の財政難を救うため「屡藩政改革ヲ建議」するも、藩中枢の反対者に

より「家門ヲ鎖サルル」処罰を受けたとしている。しかし、以後も屈することなく改革を志し、やがて、次期藩主

の「少傅」(教育係)に採用ざれ藩政の中枢に関わるようになると、藩内の「文武ヲ盛ニシテ士気ヲ振興」するこ

とに成功し、さらに、新設した「教導局」から領内町村に「教導吏」を派遣し、領民に対し食糧増産・経費節約・

飢鐘対策等について指導を行い、かつ、藩の会計を適任者に交代させたことで、藩債を償却し「余財ヲ生」じさせ

たとする。そして、この金子の改革は、上山藩において「富国強兵ノ目途」をつけたものであったとしている。

後者については(②以下の部分)、幕末期、金子は徳川家に恩義ある譜代大名の臣下ゆえに、「尊王嬢夷討幕ノ論 士」と「佐幕開港ノ議者」が対立を深める状況に危機感を抱いたとする。そして、その状況を打開すべく、金子は

幕府・朝廷が一体となった公武合体による擬夷実行体制の構築を志し、徳川斉昭・頼三樹一一一郎・清河八郎・幕閣

等、「尊王佐幕両党」の間を昼夜奔走し議論を交わしたとしている。しかし、その最中、一八六七(慶応三)年

十二月、江戸薩摩藩邸浪士取締に出動し重傷を負い、志半ばで命を落としたとしている。

次に銅碑建設を企画した経緯について見ていくと(③以下の部分)、まず、現在まで金子の顕彰碑が建設ざれな

源内小松竹治郎鹿納方由玉造忠孚天野正彦橘弘孝三輪多穂彦鈴木精吉川幸生荒木春平森

(肥)

犀助佐藤三郎右衛門高橋源蔵秦継弘沢部儀平太河合孝朔 ※史料中の読点と記号(①~③)は筆者附。

まず、「主意書」中に記された金子の人物像について見ていきたい。

この中で金子は、上山藩政の改革者、および、公武合体による尊王・撲夷の実践を志した人物として描かれてい

50

(7)

近代における旧上11」藩士金子iili邦像形成に関する-考察

かつた理由として、戊辰戦争で上山藩が敗北し賊軍となってしまったことが記されている。つまり、同戦争で上山

藩が旧幕府軍に味方したことが、同藩士の金子に対しても「単純ナル佐幕党」と、同人の事績を無視した評価を世

間に定着させる事態を招き、そのため顕彰碑建設は見送らざるを得ない状況にあったとしている。

しかし、時間の経過と共に生前の金子を知る人物が減っていくなかで、このままでは「先生ノ徳沢空ク浪滅二帰

シテ、終一一之ヲ知ルモノナキニ至ラン」と判断したゆえ、「発起人」らは銅碑建設を企画し、それに向けた寄附金

募集を開始するに至ったとしている。つまり、今回の銅碑建設は、金子の生前の功績を伝えるだけではなく、同人

に対する誤った評価を是正する意図もあったといえるのである。

では次に、寄附金募集開始から六ヶ月後に完成した銅碑に刻まれた文面について見ていきたい。

嘉永安政年間外国事起、海内憂国之士紛々横議、雛二所し執各異一張二国威一禦二外侮一則同、而奥羽中以二得庭金

子先生一為二巨壁一(中略)年十八、遊二仙台一師二事平泉大槻氏一居一一一年、遊二江戸一入二昌平饗一(中略)常主二実

行二養老典一歴二訪艸葬儒士慮一還二江一日明年世子襲レ封、山城守信庸是也、先生與二四方諸名士一往来、 践躬行一用二心当世之務『 志士多入二京師一窺二天意(

騒然、先生周二旋其間一説し彼諭レ 政之非『諸士皆信二尊王擬夷之説『而先生則欲し使三幕府行二尊擬弍其説穏当剴切、名重一一一時一(中略) 坐し事禁鋼、憂二時 し是尊王之心益切、 下二撰夷之勅『幕府因循不二俄奉P之、海内激徒憤慨、或欲三暴挙襲二横浜洋館『或欲下挟一一天朝一間中幕府罪い物情 一天意一先生亦因二縁京紳一側拝二龍姿(籟喜有し旬日、艸芥之臣名是謙、天顔腿尺拝二余光(於 先レ是歴二遊近畿及北陸、山陰、西南海諸道一汎與二儒生志士一交、聴二時論一察二世情一而帰、会 事一不二自勝『(中略)安政四年、為二世子傳一(中略)文久元年、従二世子一巡二視越後別邑一 尤尊一一崇王室一(中略)嘉永六年、米国遣レ使有三所二強請一幕府依違不レ決、物議淘々、

1‐‐

此百方尽レカ、欲下調一一和朝幕一以図中禦侮埣頗有し所一一救護『而朝幕意不し協、繍歎脇 慨二歎幕 既而朝廷

(8)

旧上山藩主正四位 松平信庸蒙額

東宮侍講正五位勲四等三島毅撰

庭士 西川元譲書

(週) 出羽 小野田才助鍋字

※史料中の下線・読点・中点・返り点・丸括弧内の記述は筆者附。

この銅碑に記された金子の人物像について、その大筋は前出「主意書」と同じである。ただし、尊王・援夷の側

面について、「主意書」よりも詳細に記されている。以下、その点について記しておきたい。 まず、尊王について。金子は若き頃より「尤尊.崇王室一」(尤も王室を尊崇する)、天皇に強い忠誠心を持つ人物 だったとされている。そして、それを物語る逸話として、’八五二(嘉永五)年一○月、藩から暇を得て西国遊歴 日『則達二平生藷 明治三十年七月 為二国家一論議画策、可レ謂二俊傑之士「不幸中道発二千非命一借突哉、設使三之存二於徳川氏帰順之後奥羽連合之 而已、激徒或不レ察、以為下一意阿二幕府一者上屡欲し暗二殺之『藩主恐し傷二重臣一懇諭帰し藩(中略)三年徳川慶喜 公辞二大将軍職一、退居二大坂一與二江戸一阻隔、都下物情益騒擾、藩主急命二先生一南上、会浮浪之徒、集擴二薩邸一 乗し夜出掠、市民不し安レ業、(慶応三年)十一一月二十五日、徳川氏命二庄内・鯖江・上山一一一藩一勅し之、賊防戦力 掲、衝二上山兵一而走、先生時侍二主側(流弾賞二左腹一創甚界帰、藩主悲骸、親臨視し之直命列二執政『増二禄米一 通し前百三十石、徳川氏亦遣二侍医一診レ之差特典也、一一十六日創劇遂没(中略)鳴呼、先生入則治二国政『出則 日、天朝果討二幕府(我藩徳川氏支族且有二君臣之分『情誼不し可レ従二事干戈(但至誠号泣為二徳川氏一請二寛典一

則達二平生尊王之夙志一多方周旋、或使し不し至レ接二干戈(亦不し可し知也(中略)

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近代における|日上山藩士金子清邦像形成に関する-考察

に出た途次、京都で知人の伝手をたより天皇の「龍姿」を間近で見る機会を得て「尊王之心」が高揚し、その結 果、暇の期間を超過することを顧みず、西国の儒者・志士を訪ね歩き時勢について議論を交わし、帰藩後、藩から 謹慎処分を受けたとする話が添えられている。さらに、このように強い尊王心を持つ金子が戊辰戦争時に存命であ れば、同人の「周旋」により「干戈」(武器)を交えずに戦争を終結に導くことができたのではとの憶測も記され

次に撲夷について。金子は擢夷実行のためには、幕府と朝廷が一体となり諸政を改革し、国庫を富ませ軍備を充 実させることを肝要とし、その実現に向け周旋活動に奔走したとしている。しかし、幕府と朝廷の関係が悪化する 状況に対して金子は、もし朝廷が討幕を命じる事態となれば、「徳川氏之支族」(譜代藩)である上山藩は、朝廷に 徳川家の「寛典」を乞う以外に取るべき道はないと主張したとしている。この金子の姿勢は、当時、朝廷が発した 嬢夷実行の勅命を一向に履行しない幕府を糾弾すべく、横浜の外国人居留地襲撃などの過激な嬢夷を目論む「激 徒」の反感を買い、その結果、金子は彼等から命を狙われる事態に陥ったとされている。 以上が銅碑に記された金子の人物像である。先にも述べた通り、この銅碑は、建設地の上山町において、金子の 人物像を形作るうえで大きな影響を持ったと考えられる。しかし、この人物像が揺るがす事態が後年発生する。そ

の点は次節以降で論じていきたい。 れぱ、日 ている。

八九七(明治三○)年の銅碑にて示された金子の人物像が揺らぐ契機は、史談会において交わされた、出羽庄 尊嬢志士清河八郎暗殺関与疑惑の浮上

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(10)

そして、談話収集開始から七年後、史談会では、清河が浪士組結成に協力した意図は、幕府擁護のためではな

く、幕府を利用し櫻夷実行に向けた実戦部隊結成を目論んだためであり、佐幕に心変わりしたとは認められないと

(功) の見解がまとまり、その]日を宮内省に上伸している。つまり、この上伸により、それまで見送られてきた清河の贈 位・履歴の「殉難録稿」収録が認可される可能性は高まったといえる。 その状況下、史談会で清河と金子の関係について重要な談話がなされている。その談話とは、一九○三(明治 清河に対しては、明治初年から遺族・有志らにより顕彰活動が開始され、その中で、贈位を求める請願が山形県

〈脇)

を通じて政府に提出されていた。また、「殉難録稿」とは、一八九一一一(同一一六)年から一九○九(同四一一)年まで

〈Ⅳ) 刊行された、幕末期に政治活動に身を投じ落命した尊王の人物の履歴を収録した書籍である。清河について現在で は、幕末に尊王撰夷運動を展開し、その中で、将軍徳川家茂上洛の際、その警備を名目に幕府が結成した浪士組を 利用した横浜での擾夷実行を画策し、その準備を進めるなか、一八六三(文久三)年四月、事前に計画を察知した (旧〉 幕府が放った刺客により江戸の麻布一之橋にて暗殺された人物として認識されている。しかし、同〈万で談話収集が 開始された当時、清河には、浪士組結成の際、浪士集めに力を貸すなど幕府に協力的な態度をとっていたことか

ら、晩年に尊王から佐幕へと心変わりしたとの疑いが生じ、その結果、宮内省内で贈位と「殉難録稿」収録は見送 〈⑱) 庁つれていたのであデ③。 内藩郷士清河八郎の事績に関する談話中に見出すことができる。

(Ⅱ}

同へ玄では一八九四(同一一七)年から清河の事績に関する談話の収集が開始されている。その開始理由は、政府内 で清河への贈位、および、宮内省編纂「殉難録稿」への同人の履歴収録、それらの可否を決めるにあたっての調査

(崎) の意味〈pいがあった。

清河に対しては、、

154

(11)

近代における|日上山藩士金子清邦像形成に|1Mする-考察

三六)年三月に元浪士組の中村維隆によりなされたものとなる。以下、その中村の談話が掲載された、同会発行 「史談会速記録」(以下「速記録」)の一部を抜粋し提示したい。

鎖港」すべきと考える金一

交流していたとしている。 金子に死んで仕舞った、人を暗殺するやうな者は矢張り自分も非命に終って仕舞ふ(後略)

※史料中の下線・読点・丸括弧内の記載は筆者附。 中村によると、生前の清河は、自身と同様、幕政に不満を抱き、かつ、「王命」(孝明天皇の命令)に従い「擬夷 港」すべきと考える金子を非常に信頼し、横浜での擾夷計画を事前に伝えるなど、「水魚の交り」の如く親密に (前略・清河八郎の暗殺について)あれは金子與三郎の為で(中略)徳川の弊があるといふことは(金子も) 知って居った、付ては王命を奉じて援夷鎖港の事をやって行かなければ通もいかぬといふことを知って居っ た、清河と相合する為に消河は非常に信用して居った(中略)然るに(文久三年)四月の十三日(中略)其の 前に愈々擬夷(横浜の外国人居留地襲撃)を決行すると云ふ事を言った様子です、金子に向ってですな(中 略)金子の主人は御老中をして居った水野さん(板倉勝静の誤)で、(清河は金子に対して)どうか主人公に も(幕府による援夷実行について)種々言って呉れと言って頼んだが到底行はれない、行はれなければ自分等 は断行する、巳むを得ないから断行すると云ふことを言った様子です、それで(清河は金子に撰夷実行の決意 を伝えるべく)再び行くと云ふから(私達は)悪いと云って止めた、併し(清河は)自分は金子とは水魚の交を伝えるべく)再び行くと云ふから(私達は)悪い りだから大丈夫だと云って出掛けて行って(中略) 舞った(中略)それで私等(浪士組)の方で金子を尾け狙ったのです、そうすると金子は江戸へ置かない、そ れから再び(江戸へ)出て来て今度は十二月二十八日の鹿児島藩邸の焼撃の時に、水野家へ向けた鉄砲の為に 金子の所へ行くと、スッカリ幕府で手を廻して殺して仕

{幻}

155

(12)

しかし、中村ら清河の同志中では、一八六一一一(文久三)年四月一一一一日、金子に擬夷決行の決意を伝えるべく江戸 上山藩邸に向かう清河を制止するなど、金子に対し疑念を抱いていたとする。おそらく、金子が清河から、幕府に よる撰夷実行について、幕閣板倉勝静(金子と懇意)への働きかけを依頼されながら一向に履行しなかったこと が、清河の同志中で、金子は幕府と結託し横浜擬夷計画の阻止を目論んでいるとの疑いを生じさせていたものと考 えられる。それゆえ、清河が暗殺された当時、中村らは、金子が清河暗殺の手引をしたと判断し、それ以降、同人 を殺害すべく「尾け狙った」としている。

そして、この中村の談話の翌々月から同年八月にかけて発行された「速記録」に、清河の事績を紹介した「清河 (型) 八郎履歴」(「履歴」)が連続掲載されていく。 この「履歴」で清河は、先に史談会が宮内省に報告した如く、尊王・援夷運動に身を捧げた人物として描かれて いる。また、この「履歴」には、初回が掲載される直前になされた前出中村の談話も反映されている。これらの点 から、この「履歴」は、それまで史談会で行ってきた清河の事績調査の結果を示したものいえる。そのなかで、清 河と金子の関係は、一九○三〈明治一一一六)年八月発行の「速記録」収録の「履歴」(連続掲載の最終回)中で言及

されている。それに該当する部分を次に提示しておきたい。

輩の外絶て之を知る者なし(中略)故に幕吏中非嬢夷派、即ち速見又四郎、松本正一郎、窪田治部右衛門、 佐々木只三郎の如きは秘密探偵をも兼ね常に擬夷派余等か動静に注目せるは疾く我か知所なれは、彼れ等に対 ママ しては注意最も周到なりしか為め、彼れ等も之を知るに由なかりしなり、然るに清河八郎は水野出羽守(松平 〈前略)中村維隆自伝に日

156

(13)

近代における|日上山藩士金子清邦像形成に関する-考察

この「履歴」が「速記録」に掲載された翌年、旧上山藩士増戸武平が史談会に招かれ談話を行っている。増戸は

(割) 若き頃、金子から直々に教えを受けるなど、同人と懇意にしていた人物である。先の銅碑建証返の際は発起人の一人 (聾) として名を連ねるだけでなく、銅碑建証亟と併せ計画されていた金子の遺稿集編纂の責任者を任されている。さら 自から手を下すに忍ひす、且つ人言を如何ん、乃ち佐々木只三郎、速見又四郎等をして事に当らしむるに如か す、然れとも八郎ハ頗る武技に長す、容易く鰭れさるなり、幸ひに彼れ酒を好む、之を招きて泥酔せしめ帰途 に之を要撃せしむるに如かさるなりと、遂に与三郎は四月十三日を期し八郎を招請し、一方には又四郎等に通

(幻} 牒し準備全く整ひ、ロハ其日の来るを遅ちたりき(後略)

※史料中の下線・読点・丸括弧内の記栽は筆者附。

この中で金子は、清河と「常に相往来して天下の形勢を議論」するほど親密な関係だったとされ、それゆえ、清

河は金子を信用し、極秘にしていた横浜擾夷計画を漏らしたとしている。しかし、この計画に反対する金子は、そ

の実行を阻止するためには「禍源」である清河を殺す他ないとの考えに至り、清河を酒宴に招き泥酔させ、その帰

途、佐々木只三郎ら幕吏に襲撃させる暗殺計画を立案し準備を整え、実行日の一八六一一一(文久三)年四月一三日を

待ったとされている。つまり、史談会は中村の談話を採用し、金子は清河暗殺の首謀者であるとの見解を示したの

である。 この 大事なり、 信庸の誤) を議論し、 波及する側るへからす、今一の八郎を磧さは彼党は自から土崩瓦解せん、然れとも情交彼れの如くにして、吾 八郎は彼れを信する厚きに過き浪士今回の秘事を漏すや、》 多数の浪士等八郎の誘導に遭ハ、廃然相結托するや必せり、 の家臣金子与三郎なる者と素と同窓の学友にして断金の交あり(中略)常に相往来して天下の形勢

彼れ大に驚き心に謂らく、是れ天下の一

今にして其禍源を断たすんハ其害毒の

157

(14)

に、’九○七(明治四○)年頃に結成された、旧上山藩主藤井松平家の顕彰団体「松平家名誉回復期成会」では会

(妬)

長に就任している。こういった経歴から、明治以降、上山から東京に転居していたものの、上山においては、郷土

の歴史に精通した人物として強い影響力を持つ人物であったと考えられる。

さて、史談会では幕末の上山藩政の動きについて調査すべく、一九○四(明治三七)年五月から一九○八(同

四一)年一○月まで、計一八回に渡り増戸から談話を求めている。その二回目となる一九○四(明治三七)年九月

{”〉 あとまわ ママ の談話で、増戸は当時の上山藩政に関する前回の続きは「迩廻し」にして、「先つ清川八郎に関することを申上け

ようと恩ひます」と述べ、終始、清河と金子の関係について、以下の自身が見聞きしたことを語っている。

まず、増戸は一八六一一一(文久一一一)年四月一三日、江戸上山藩邸にて藩主主催の「打球」に参加していた際、藩邸

近くの麻布一之橋で「人殺し」があったとの知らせを受け現場へ駆けつけたとしている。そして、現場において殺

害された人物は清河らしいとの話を聞きつけ、その真偽を確かめるべく、同藩邸内にいた清河の「友人」である金

子のもとを訪れたとしている。そこで増戸は金子から次のような話を聞いたとしている。

ママ (前略)狐金子に行きまして、今橋向ふて殺されて居るのは清川の様であると云ふ}」とですが、是れはドウ云 ママ

幕府に便らず独立独行で尊王擾夷をする積りである、 惜しき事をした、実に至極残念であると申しまして、釦その訳と云ふは(中略)先達て以来度々訪ね来りさし ふ訳でしょうと尋ねますると、金子の申しまするにハ、清川に相違ない、彼れは今日朝から己れの所に訪ねて 来て午食を共にし酒も飲み種々談話の末に帰ったのである、ところが計らずも橋向ふで殺されたさうであるが て同人(清河)の申し出るには、曾て幕府を助けて尊王嬢夷をするつもりであった、けれども段々経験して考 へて見ると幕府ハ何分にも因循姑息であって何時まで経っても目途がない 経っても目途がない(中略)依って我鎚はこれから後ハ

其の方法ハ先つ斯ふである、自分の率いる浪士組をつれ

158

(15)

近代における|日上山藩士金子清邦像形成に関する-考察

た、残念で堪へられんと云ふ金子の話でありました(後略)

※史料中の下線・読点・丸括弧内の記載は筆者附。

金子は増戸の「今橋向ふて殺されて居るのは清川の様であると云ふことですが、是れはドウ云ふ訳でしょう」と

の問いに対し、殺されたのは清河に間違いないと断定したうえで、その直前まで酒を飲みながら、清河が計画して

いた横浜での懐夷計画について議論を交わしていたと伝えている。そして、その議論中、金子は清河に対し、現段

階で「罪もない商館を不意に焼き払ひ、兵力もない商人を露」にしても何の効果もないとして、計画の実行を思い

とどまるよう説得し、清河から、実行の可否について今一度仲間たちと議論したいとの返答を得たとしている。こ とてある(中略)ドウか篤と考へて賞ひたいと云って懇々論談すると、其れなら(これから家に帰って能く考 にならいは勿論、日本の一大憂患になることであるから、且つ飲み且つ談じながら殆んど終日種々説得した、 その説得の要領ハ斯ふ言ふた、罪もない商館を不意に焼き払ひ、兵力もない商人を霞にしたりとて何程の功に もなるまい(中略)それよりか彼の政府に向って公然談判を為し、愈々聴かぬ時に至り決行しても晩からぬこ 詩を作りて筆を揮ふた(中略)右の通り送別の詩を作るハ作ったが、清川の見込の通り決行してハ同人の為め ら、それは如何にも過激のやり方でハ無い乎、宜しくあるまいと云って色々説得したけれども承知しなかった

(中略)今日ハ朝から訪ねて来て、愈々近日の中に決行する積りである、依って暇乞ひに来たと云って訣別の

らぬ、自分も警戒して居る際である、君も要心するが宜しい、どうだい駕篭を傭ふて其れに乗って人に知られ

ぬやうにして行ってはと云ふたけれども、白昼にさう云ふ憂がないと云って出かけたが実に惜しいことをし て横浜の洋館を焼き払ひ赤韓を皆殺にして、其首級を持って京都に上り天子様に献上する積りであると云ふか へやう、尚ほ同志の者にも謀らうと云ふたによりて我輩は安心して、この節は刺客などがあって中々油断がな

15,

(16)

きず、その』

としている。 の返答に金子は安堵し、家路に就く清河に、「この節は刺客などがあって中々油断」できないため、人目に触れぬ よう駕篭を使って帰宅したほうがよいと勧めたとする。しかし、それを拒み徒歩で帰宅する清河を止めることがで きず、その結果、暗殺されるに至ったとして、「実に惜しいことをした、残念で堪へられん」との言葉を漏らした

しかし、増戸はこの金子の話を聞いた際、清河暗殺に「金子が関係して居るに相違」ないとの思いを抱いたとし

ている。その理由について、増戸は次のように語っている。 (前略)狐、右様私が金子のその日に申した言ぱを信しませんでしたのは別に少し訳のある事でござります

寒暖述ぶるや直ぐに浪士組の話が初まり〈中略)実ハ清川八郎を暗殺しやうと云ふものがあるそうですが、あ

なと答へました、すると金子は、暗殺と云ヘバ西国が水戸の者で蚤もなければ出来ぬ事のやうに思ふて居ます

したるハ、 が、今度のはさうではなく幕府の御家人の中なそうですと云ひて、幕臣も弱いもの斗りでないと云ふ意味を含 れはドウ云ふものであらうと云ふて可否を問ひかけますると、多賀ハ鳥渡考へて居ったが、至極宜さろうです でありて、 の屋敷に行くと云ひました、 の処に来た帰り途に於て右のことが起ったからにハ、是必ず小笠原邸にて聞きたる話の結果が現はれたろもの ママ (中略・清河暗殺の)凡そ一 一緒に行きました(中略)彼の屋敷に這入って小笠原家の重役の由、多賀準人と云ふ人を訪ひまして(中略) ママ

金子が関係して居るに運ひないと思ひました、而して之と同時に金子が親友た》

単に浪士組が乱暴で困ると云ふが如き軽易なことより起りたる訳にあらずして、 ヶ月計り前(中略)何心なく金子の宅を訪ねました(中略・金子は)小笠原閣老 然らば私も一緒に行て見たいと云ひますと、差支ないと云ふことでありますゆへ

而して之と同時に金子が親友たる清川を暗殺ざせま

国家の利害に大関

160

(17)

近代における|日上山藩士金子清邦像形成に関する-考察

を明かせし程の親友を忍んで殺したものであって、実に不得已場合と思ひます(後略)

※史料中の下線・読点・丸括弧内の記載は筆者附。 この中で増戸は、清河暗殺の一ヶ月ほど前、金子が江戸の幕閣小笠原長行宅にて、幕臣が清河暗殺を企んでいる と同宅にいた多賀にⅨめかしていたこと、さらに、前述した銅碑建設の際、碑の撰文者を探す中、金子と懇意にし ていた旧幕臣の杉浦から、清河暗殺を実行した人物の一人である幕臣佐々木只三郎と金子は、清河暗殺以前から面 識があったとする話を聞いたこと、これら自身が見聞した二つの出来事から、首謀者か否かは断定できないもの の、金子が清河暗殺に関係していることは間違いないとの考えに至ったとしている。そして、金子が清河暗殺に関 係していたことは、清河の横浜での擬夷は「我日本の一大憂患」を招くものであっただけに、親友を殺してまでも IIlIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIママ

と云ふことでござりました(中略)私の清川に関係して見聞したる所は大略右の通でありますゆへ、果して 尋ねました所、杉浦は自分が本所に住居せし頃、佐々木唯三郎が突然遣って来て、今清川を暗殺して来たと云 係ある所より已を得ず斯る所為を為したるものなる事を悟り、大に感心しました事であります(中略)それか ら、前年金子の石碑を建てると云ふことで、其碑文の作成を川田剛に頼みましたる処、全人の申しますに、杉 浦梅潔が幕吏中金子と懇意にした様子であるから、彼処に行って聞いたならは好い事実を得らる、かも知れぬ と云ふことで、杉浦の処に行きました、其節、私より貴所と金子とハドウ云ふ縁故で御交際になりましたかと ふことであったが、其時佐々木より、金子の人傑たる事を聞かされたるに付、爾来互に訪問して懇意になった

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エに.いふⅢ民古T

161

(18)

国家の利益を守ろうとした結果であり、「大に感心」かつ「実に不得已」ことであったとしている。 さらに、この談話の終盤、増戸は史談会側から清河の思考について問われた際、次のように発言している。

増戸は、当初清河は幕府を助けるべく擬夷実行を目論んでいたのかという史談会の寺師の問い対し、「尊王も擬 夷もすべて幕府を助けてするといふ主義の金子と深く交際」してことから「夫に運」いないと返答している。つま り増戸は、清河も金子同様、幕府に忠義を誓いながら尊王・擬夷の実践を目指した人物との認識を示したのであ る。ただし、その両者の中で見解が一致しなかったのは、援夷の方法であったとしている。金子は「順序を逐ふて 国威を張」る、つまり、国内の政治改革により国庫を富ませ武備を充実させた後に嬢夷実行に踏み切るべきと考 え、一方清河は、横浜を「往きなり焼き撃ち」するという、金子とは相反する過激な方法を支持したとしている。 それゆえ、前記の如く、金子は清河に擬夷実行を思いとどまるように説得したが、ついに聞き入れてもらえず、や

むなく同人の暗殺を決意したとしているのである。 以上が清河と金子の関係について、増戸が史談会で語った内容である。 さらに、 ,(前略) 寺師君(宗徳)清川は初めは幕府を助けて擬夷をしやうといふ、幕府に忠義の考へで 増戸君さうであります、尊王も擬夷もすべて幕府を助けてするといふ主義の金子と深く交際を為し、且つ最 後に金子に申出たる言語によりて見ますれハ夫に運ひないと思ひます、然し金子の所謂擬夷ハ順序を逐ふて国 威を張らんとするつもりであります処、清川は往きなりに焼き撃ちをしようといひますゆへ鷲て之を止めまし たけれとも聞きませんから、密かに杉浦などといふ有志の幕吏に告げたかもれませぬ(後略)

※史料中の読点は筆者附。

162

(19)

近代における旧上山藩士金子清邦像形成に関する-考察

先の増戸の史談会での談話以降、それを打ち消すかのように、清河は天皇に忠誠を誓い嬢夷活動に身を捧げた 「勤王」の志士として、その評価を確固たるものにしていく。

(涕) 一九○七(明治四○)年頃、清河を採録した「殉難録稿」第五一二巻が宮内省から刊行される。同書中、浪士組結 成へ関与した清河の意図は、「幕府をして浪士を墓らして、撰夷の大命を奉行せしめん」、つまり、幕府を利用した

擢夷実行のためとされ、晩年に佐幕へと心変わりしたとする疑惑は一蹴されている。 そして、一九○八(明治四二年九月、清河への「正四位」贈位が決定する。この贈位は、同月に実施された東 宮皇太子(後の大正天皇)の東北地方行啓を契機に実施されたものである。この贈位決定を受け、同年一○月 一七二八日、清河の郷里清川村では贈位を祝う「奉告祭」が開催され、五千人ほどの参加者を得て盛況の裡に幕 (鱒) を閉じる。さらに、同村を含む庄内地方で発刊されていた新聞には、同年九月月一一一一日から翌月一一九日までの間、 (釦) 清河関連の記事が連日掲載されてく。このように、贈位決定を機に、清河は「勤王」の人物として周囲に宣伝され 増戸は、日本に不利益となる過激な擾夷を目論む清河暗殺を成し遂げ、日本の利益を守った人物として金子を高 く評価したといえるだろう。そして、増戸がこのような評価を下すことができた背景には、清河も金子と同様、尊 王・擬夷のみならず、佐幕の思考も有していたとする認識があったためといえる。つまり、意図的が否かは不明な がら、結果的に、増戸の史談会における談話は、「履歴」に描かれた清河の人物像に対し異議を示すものとなった のである。

三「勤王」の志士清河八郎像の成立

63

(20)

この贈位決定以前の同年八月三一日、山形県知事馬淵鋭太郎から内務大臣平田東助に対し、皇太子行啓の際に、

(釦) 本県の「国家二勲功アル旧藩主、勤王家、其ノ他篤学者」に対し贈位を求める「内申」が提出されている。次に提 示するものは、その際に添付された贈位候補者を記した「勲功者人名目録」である。

勲功者人名目録(弐拾参通) (「、点ナキモノハ第二回トシテ調査相成ルヘキモノ」と記載の附菱有) 戸沢正実、北條角磨、安島直凹金子清邦水野忠邦白田秀則会田安明高宮常矩(「贈正五位」と 記載の附菱有)吉田守隆上杉治意、上杉謙信、莅戸善政、竹股當綱、斎藤正明(清河八郎)、阿 部潜本間光丘酒井忠徳神保綱忠黒井忠寄北楯大学肋水野元朗白井重行佐藤藤左ヱ門佐藤藤 蔵(佐藤藤左ヱ門と同一人物) ※史料中の下線・丸括弧内の記載は筆者附。 この際、計二三名の贈位候補者が報告され、その中には清河八郎(斎藤正明)と金子清邦の名を確認することが できる。この「内申」を受け、翌月二日、内務次官一木喜徳郎から内閣書記官長柴田家門に対し、候補者二一一一名の

(理) 贈位の可否について審査依頼がなされ、「付菱」部分に記されているように、「、」が附された七名への贈位が認め られたことが確認できる。つまり、清河への贈位決定の裏で、金子は落選していたのである。 また「内申」の他に、山形県では、先の贈位候補者二三名を含む、維新前後に国家に貢献した県内出身者「九十

(郷)

(弧)

有余名」の伝記を収めた、「善行美蹟」(上・下巻)を編纂し、同年九月の行啓の際、皇太子に直接提出している。 同書で清河と金子は、共に尊王を志し行動した「慨世憂国」の人物であったと紹介されている。しかし、嬢夷に ついては、清河は「大挙横浜に殺到」し外国人を「屠り、油を潟ぎて夷船を焼」き擬夷の魁となることを目指し、 ていったのである。

164

(21)

近代における旧上山藩士金子清邦像形成に関する-考察

ただし、先に内務大臣に提出した「内申」において両者を贈位候補者として報告し、さらに、同書に両者の事績 を記し、それを皇太子に献上していることから、当時、県としては、金子が清河暗殺に関与していたとしても、両 者は「勤王」の人物として両立すると判断していたといえるだろう。しかし、この清河暗殺への関与については、 後に金子の人物像を混乱させる原因となっていく。その点は次節で詳述する。

’九二六(大正一五)年六月、上山町教育会から金子清邦の伝記「幕末之名士金子与三郎」西 ず、同書刊行の経緯について、同書所収の同町教育会長山内莞爾の序文を提示しておきたい。 徳川氏の末造文括武煕の秋に当り、我が上の山に一偉人を出せり、即ち金子先生是也(中略) 一方で金子は、「朝幕一致」し諸政改革に取り組み、「国庫」を富ませ「兵器」を供えることが肝要であると考えた とされ、互いに見解を異にしていたとされている。そして、清河暗殺については、金子が清河の「謀図を聞き、辞 色梢変ず」と、清河から横浜懐夷計画を事前に聞き難色を示した後、清河を「麻布の藩邸に招」き、その帰路、清 (弱) 河は刺客に襲われ命を落としたと記されている。つまり、金子が清河暗殺の首謀者の一人であったことをうかがわ せる内容となっているのである。

四「幕末之名士金子与三郎」の刊行

生より教を受けられたる先輩等亦已に物故し、今や全く侍るべき所なし。我教育会之を慨き、先生の伝記を発 下に奮闘したりし(中略)鳴呼先生世に即しより已に六十年、史料散逸して又捜索し得べからず、而して又先

E側α勘 が刊行される。

外国事起るに及

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(22)

るに足るべし(後略) ※史料中の下線・読点は筆者附。

山内によれば、金子は徳川家に恩義ある譜代大名藤井松平家の「世臣」ゆえ、「公武合体」して天皇に尽くすこ とが「時事を解決」するために重要と考え、その実現に向け「奮闘」したとしている。しかし、史料の散逸と同人 から教えを受けた「先鎚等」の死により、今や金子の事績を後世に語り継ぐ術は失われており、その状況を打開す べく、同町教育会では同会員寺尾英量に編纂を託し同書刊行を企画したとしている。 この同書に記された金子の人物像について、その大筋は、一八九七(明治三○)年の銅碑建設以来主張されてき た藩政改革者・公武合体による尊王擬夷の実践者として描かれている。しかし、後者について、その評価を揺るが しかねない項目が一部挿入されている。それは、清河暗殺に関してのものとなる。以下、その該当部分を提示して

おきたい。 行せんことを企て、会員寺尾英量氏に編纂を嘱托す(中略)又以て後進の子弟に先生が抱負の一端を知らしむ

と虚日なく、互に能く心胆を披瀝せり。当時海外列強の使臣、駐罰して横浜に聚る。八郎浪士組を率ゐて、横 (前略)先生始めより(清河八郎と)相識り交情常に濃かなり、文久一一一年三月幕府浪士を募り万一に備へんこ とを図る、八郎其募に応じ、浪士組に入り憐輩より推されて首領となり、江戸にありしかぱ、先生と来往殆ん

げ以て尊王擬夷の魁をなさんとす。同四月十四日愈々焼打を決行すべき内議を以て十三日来りて之を先生に図

罪の師を興し、酬らる面に想ひ到らぱ、其帰着する所転々寒心に堪へざるものあり(中略)徒らに目前の快を

11

る、先生以謂らく八郎の胆ち略とを以てせぱ或は其事成就せん、然れども是一時の快而已、列国必聯合して問

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166

(23)

近代における|日上山藩士金子清邦像形成に関する-考察

らんとする事実に想到せぱ、蓋し思半に過ぐるものあらん。(後略)

※史料中の下線・丸括弧内の記載は筆者附。

この中で金子は、清河から横浜の外国人居留地襲撃による撰夷計画を聞き、「徒らに目前の快を貧り他日の侮を 残すは識者の取らざる所」であるとして、計画を中止するよう説得したとする。ここまでは、先に史談会で増戸が残すは識者の取らざる所」で全

語っていた内容と同じとなる。 しかし、その後の金子に対応について、「先生亦其志の奪ふくからざるを覚り、小宴を開きて其行を壮す」と、 美玉三平と和歌山藩士三浦五助)亦英艦を打って、擾夷の魁をなさんことを、老中板倉侯に(金子を介し)迫 刺客は先生に関係なき幕府の徒士たるに於てをや。当時の幕府は既記の如く勝安房等の如き、開港論考漸く勢 闇はす必要なきにあらずや。 出づるものにして扉 きしめたりとせんか、 願くは之を恕せよとて熱涙以て決別を告ぐ、先生亦其志 (中略)先生遂に之を藩邸正門に送る(中略)偶二人の件 百歩許、一の橋の東、人家粗にして行人絶ゆる所に至り、 幕府の徒士高久半之丞、佐々木只三郎の両人なりといふ たるも、既に衆と大事を約して準備巳に整ひ、機亦熟したる今日、我輩の面目として之を中止するに由なし、 を占め、先生等擬夷論者は寧ろ八郎等と意見の接近しっ、あるのみならず、前項の如く先生の同志(薩摩藩士 に出でたる如く言ふものあるも、夫は先生と八郎との関係及先生と幕府との関係を知らざる近親者流の臆測に

一笑に附して可なり。今仮りに先生にして始めより害心あり、八郎を誘致し刺客を放って殺

春の最も長き日、 も長き日、朝より夕刻に至るまで、口角沫を飛ばし横浜焼打の利害に関し議論を

此くの如きは常識を以て判ずるも少しの疑を入る、余地だになかるべし、況んや 先生亦其志の奪ふくからざるを覚り、小宴を開きて其行を壮す。 偶二人の壮士酒楼伊勢屋より出で来り八郎を追尾し、行くこと る所に至り、躍然八郎の背後に迫り、刀を揮て之を斬る、刺客は

(中略)世に八郎の害せられたるを以て、先生の使喉

167

(24)

清河の心情を慮り説得することを諦め、計画の成功を祈る宴を催し、その帰路、清河は幕吏により暗殺されたとし

ている。つまり、金子は最終的には清河の撰夷実行に賛同したとしているのである。

そして、そのうえで清河暗殺に金子は無関係であること示す理由を列挙している。その理由とは、①金子が最初

から清河殺害を決意していたのならば、刺客を放ち、かつ、暗殺実行前に同人と長々と議論を交わす必要はなかっ

たこと、②清河を暗殺した刺客と金子の間には面識がなかったこと、③当時の金子は、周囲の状況を勘案すれば、

清河に近い「意見」を持っていたと考える方が妥当であること、以上の三点となる。 ①については、異論を差し挟む余地がない妥当な理由のように感じられる。また、②については、管見の限り、

清河暗殺以前、暗殺実行者(佐々木只一一一郎)と金子の間に面識があったことに言及されている史料は、前出の史談 会における増戸の談話以外見出すことができない。このことから、②はその増戸の発言を否定すべく記されたもの

といえる。前述の如く、増戸は上山において歴史に精通した人物として影響力を持つ人物であったと考えられる

が、同書編纂が企画された当時、既に世を去っていた。佐々木と金子に面識があったとする増戸の談話は、後年、

増戸自身が金子の関係者から直接開いた話しが根拠とされていた。それゆえ、増戸以外証明できる人物はなく、か

つ、同人が既に死去していた状況からすれば、佐々木と金子には面識はなかったと主張しても、周囲から妥当なも

のとして受容される可能性は高かったといえる。 しかし③については、先の①②とは異なり、それを妥当なものと判断するには難しい内容となっている。その点

について、まず③の根拠の一つとされている、金子の「同志」美玉らが金子を介して、「英艦を打って、擬夷の魁

をなさん」ことを幕閣板倉勝静に要求しようとしたとする、同書「前項」に記された話しを提示しておきたい。

(前略)(文久三年二月頃)同志者中、鹿児島藩士美玉三平、和歌山藩士一一一浦五肋(中略)連署を以て、英艦を

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(25)

近代における旧上山藩士金子清邦像形成に関する一考察

略)而して右上申書の先生の死後の筐底より出でしを見れば、先生之を預りて未だ提出せざりしものなるべし (錫) (後略・以下、美王らが作成した板倉宛上申書掲載)

※史料中の下線・読点・丸括弧内の記載は筆者附。 一八六一一一(文久三)年二月頃、美玉と三浦は、幕府に対し擬夷実行を迫る上申書を作成し、金子を介し幕閣板倉 へ提出を試みたとしている。仲介を依頼された金子は美王らに対し、撰夷とは国家の「食足り、兵足り、而して其 器利にして、始めて可」能になるもので、美王らが望む外国船襲撃による過激な擬夷は、遠からず外国から報復を 受け、結果的に「寒心に堪」えない事態を招くとして、その中止を求めたとしている。さらに、金子は美玉・三浦 の上申書を預かったものの、結局、「筐底」にしまいこみ、最後まで板倉には提出しなかったとしている。つまり、

金子は過激な嬢夷実行を目論む美王らに対し、終始反対の態度を示したとしているのである。 ③の理由を主張するにあたり、同書編者の寺尾は、幕府内が「援夷論者」の金子とは相反する「開港論者」が大 勢を占めていたことと、この金子と美玉らのやりとりを根拠にあげている。これらの根拠を提示した理由は、おそ らく、当時の幕府内の状況、そして、美玉らの撰夷計画に難色を示しながらも上申書を受け取ったことから、金子 の考えは「擬夷論者」である清河の方に近かったと主張するためだったといえる。しかし、幕府内の状況はともか く、美玉ら援夷計画に反対し、かつ、受け取った上申書を最後まで板倉へ提出しなかったことは、やはり、金子は 打って嬢夷の魁を為さんことを老中板倉侯に強要せんとして、先づ先生に謀りたるに、先生は意見を異にして り、我食足り、兵足り、而して其器利にして、始めて可なり、一時の快を欲し、国力の如何を顧みず、外勢の 如何を察せず、妄りに干戈を動かすは識者の取らざる所なりと、懇々其不可を解説きて之が慰撫に阻む(中 曰く、今英艦を撃沈するは容易なりと錐も、再襲来し酬らる、に想到せぱ、其結果実に寒心に堪へざるものあ

16,

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過激な擾夷に反対の立場であったことを示す出来事といえるだろう。つまり、美玉らとのやりとりは、金子が清河

暗殺に無関係と主張するための根拠としては妥当性を欠くものであったといえるのである。 そして何より、清河の撰夷計画に最終的に賛同したという点は、過激な擬夷を戒め、朝幕一体となり諸政を改革 し、国庫を富ませ軍備を充実させた後に擬夷実行に踏み切ることを理想として奔走したとする、金子の人物像に疑 問を招きかねないものであったといえる。なにゆえ、妥当性を欠く理由を用いてまで、金子が清河暗殺に無関係で あることを主張する必要があったのか。その点は、おそらく、先に清河が贈位され、国家から「勤王」の人物とし て認められてしまったことが影響していると思われる。

先に史談会において増戸は、清河暗殺に金子が関与していたと主張し、そのうえで、清河による国家に不利益と なる過激な援夷を未然に防いだ人物として、金子を高く評価していた。そして、そのように語ることができた背景 には、金子と清河が共に佐幕であったとする認識があったためといえる。しかし、贈位がなされた以上、清河を佐 幕と評価することは不可能となり、さらに、暗殺関与を認めれば、国家公認の「勤王」の人物殺害に加担したこと となり、当時としては、金子の事績を評価することが難しくなってしまう。それゆえ、金子は清河暗殺に無関係

だったと主張する必要が生じたものと思われる。 ただし、その中で、金子が公武合体を無視した過激な擬夷実行を試みる情河に最終的に同調したとする点は、 一八九七(明治三○)年の銅碑建設以来主張され、同書でも基調とされていた、公武合体による擬夷実行を目指し たとする金子の人物像を覆しかねないものだったといえる。つまり同書は、金子の擬夷に対する志向性をめぐっ て、矛盾しかねない要素が同居した暖昧な人物像を提示するに至ったのである。

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(27)

近代における|日上山藩士金子清邦像形成に関する-考察

上山町における金子の人物像は、本稿で分析を行った銅碑が建設された一八九七(明治三○)年から、金子の伝 記が発刊された一九二六(大正一五)年まで、幕末の上山藩において改革を成し遂げ、かつ、公武合体による尊王 と擢夷の実践を志し活動した人物として基本的には認識されていたといえる。 しかし、後者の人物像については、金子の清河八郎暗殺関与疑惑の浮上により評価は揺れ動き、一九二六(大正 一五)年の上山町教育会刊行「幕末之名士金子与三郎」では、公武合体による穰夷を志向したことの他に、それ とは反する過激な援夷を計画した清河に同調し、その実行を許した人物という、矛盾しかねない要素も付加される に至る。そして、その結果に至る背景には、一九○八(明治四二年の清河への贈位決定があったといえる。まさ に、国家の提示する歴史観との距離を考慮しつつ、郷土の歴史を位置づけていった地域の姿を垣間見ることができ てきた。

なお、「はじめに」で触れた、一九○四(同三七)年の旧上山藩士増戸による史談会での発言に関する蔦谷氏の 先行研究について、本稿の検討の結果、訂正を要する点を提示しておきたい。 まず、金子の清河暗殺関与疑惑が生じた契機について、時系列に見ていくと、増戸が史談会に招かれる前年、同 様の疑惑は既に元浪士組中村維隆により同会で語られていた。さらに、その中村の話からは、清河暗殺直後、つま るだろう。 本稿では、近代の山形県南村山郡上山町における、旧上山藩士金子清邦の人物像に対する認識の変遷を明らかし おわりに

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り、幕末の頃から疑惑は浮上していたとすら考えられる。それゆえ、同会での増戸の発言を疑惑が生じる発端とし た蔦谷氏の見解は訂正が必要となるだろう。また、増戸が金子の清河暗殺関与を語った意図について、蔦谷氏は、 金子が幕府に反抗的な立場の清河と親密な関係であったと認めることは、徳川家に恩義ある譜代大名藤井松平家 (上山藩主)の名誉を艇める}」とになるゆえ、清河・金子の関係性を否定すべく金子の暗殺関与を灰めかしたとし ていた。しかし、増戸の発言を見ていくと、金子と清河は共に佐幕であったと語られていた。つまり、両者とも幕 府に忠義を誓っていたと増戸が発言・認識していた以上、蔦谷氏の見解は妥当性を欠くものとなるだろう。むしろ 増戸の意図は、清河が計画した国家に不利益を齋す過激な援夷実行を阻止した人物の一人として、金子の評価を高 めることにあったと考える方が妥当であろう。 最後に今後の課題を提示しておきたい。本稿では、金子の人物像を上山町に提示する側にいた人々の認識の変遷 を中心に検討したといえる。それゆえ、その逆側にいた上山町の住民達は、提示された金子の人物像に対し如何な る反応を示したのか、その点についても検討が必要になるだろう。また、金子の人物像が提示されていく動きと、 旧上山藩主家藤井松平家の名誉回復期成会の結成、これらの関係性についての検討も必要となる。前述したが、増 (羽) 戸が後者の団体の会長を務めるなど、この一一つの動きは関係した人物・時期共に重なる点が多く、何らかの関連性 があったと想定される。これら提示した課題については、稿を改め論じることにしたい。

註 (1)上山町は、一八七八(明治二)年七月、旧上山藩領の一部となる旧城郭内の一五地区・「御城廻」郷所属の六町村が合併し成 立する。(「上山市史中巻近世・近代編」、上山市史編さん委員会、上山市、一九八四年、三六一一頁)

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近代における旧上山藩士金子清邦像形成に関する-考察

(2)金子の経歴や現在の研究史上の評価は、前出「上山市史」、栗原仲一郎「幕末期の上山藩と奥羽諸藩」s東北文化研究室紀要」 四五、二○○三年)、「明治維新人名辞典」(日本歴史学会、吉川弘文館、二○○六年〈初版一九八一年〉)、磯野圭作「金子与三 郎澗邦と上ノ山藩」(「軍事史学」通号一八三、二○一○年)などを参照。 (3)本稿で分析を加える事項以外で、近代以降、上山で幕末維新期が回顧された主な出来事は、一九一六(大正五)年に上山町で 開催された上山町殉難戦死者五十年忌法会(「上山町殉難戦死者五十年忌法会報告」、「祭文上ノ山里友会在京貝総代吉江琢 兒」、共に上山市蔵・’九一六年)、戦後出版きれた前出「上山市史中巻」などがある。これらの瓢象の中で金子の事績は、 幕末の上山藩と一体のものとして捉えられている。 (4)当時、国家が提示した天皇を中心とする歴史観について言及した研究は、田中彰「明治維新観の研究」(北海道大学図響刊行会、 一九八七年、一八一~一八八頁)、鵜飼政志「明治維新の理想像-決して忘却されない国民の物語」(鵜飼政志・川口暁弘編 「きのうの日本l近代社会と忘却された未来l」所収、有志舎、二○一二年)などがある。また、近代の地域における歴史評価 の実態について言及した研究は、高木博志「「郷土愛」と「愛国心」をつなぐもの-近代における「旧藩」の顕彰I」(「歴史評 論」六五九、二○○五年)、吉岡拓「近現代における山国隊像の変遷l山国近現代史研究のプロローグとして-」(坂田聡編「禁 裏領山国荘」所収、高志書院、二○○九年)、高田祐介「維新の記憶と「勤王志士」の創出l田中光顕の顕彰活動を中心に」 (「ヒストリァ」二○四、二○○七年)、同「国家と地域の歴史意識形成過程l維新殉難者顕彰をめぐって-」(「歴史学研究」 八六五、一一○一○年)、岩立将史「赤報隊像の変遷に関する一考察」(「中央史学」三八、二○一五年)、拙稿「清河八郎の顕彰l 贈位決定までの過程を中心にI」(「明治維新史研究」六、二○○九年)、同「近代の秋田県における「秋田藩史観」形成に関す る一考察-明治中後期の県内の動向を中心に-」(「風俗史学」四五、二○一二年)などがある。 (5)史談会とは、島津・毛利・山内・徳川(水戸)・一一一条・岩倉・中山の旧大名家・公家により、一八八九(明治一一一一)年四月に設 立された幕末維新期の調査団体である。宮内省と密接な関係にあり、設立から一○年間、同省から資金援助を受けている。同 会は、幕末維新期を知る人物を招き談話を聴取し、それを機関紙「史談会速記録」(同二五年~昭和一一一一〈’九三八〉年の間刊 行。以下「速記録」)に収録し刊行している。(大久保利謙「日本近代史学の成立一大久保利鎌歴史著作集7」、吉川弘文館、 一九八八年、三五六~一一一六三頁・前出「明治維新観の研究」、’八一~一八八頁) (6)蔦谷榮三「清河八郎の最後l金子清邦との関係」(私家版、二○一一年)。なお、近年の徳田武氏の研究において、金子が清河

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